「ハッピーアワー」観た

金曜、家の近くの映画館で濱口竜介「ハッピーアワー」上映会があるってことで、急遽午後休をとって観に行くことにした。

 

5時間以上ある映画とか観るのはじめてでなぜか緊張さえしてたんだけど、結果としてはめちゃくちゃ面白かった。

 

「偶然と想像」を観たのがきっかけで濱口作品に興味が出てきたので、地方都市で上映会なんてこんな機会しかないぞと思ってわざわざ午後休とって観た。

 

 

めちゃくちゃ面白いと思ったポイント、というかこの映画の好きポイントは、「演者の顔がキャラクターの顔にしか見えなくなる瞬間が何度もあった」ような気がしたこと。

 

ただの役者で、嘘を演じているだけのはずの人々の顔が、スクリーンの外でも生活を続けてきた、その人独自の歴史を持つ独立した人間として見える瞬間がいくつもあった。

それを感じるのは、湛えられたシワからだったり、向けられたまなざしからだったり、5時間以上ある上映時間の中でしばしば繰り返され次第に「またか、、、」と思うようになったようなそのキャラクターらしい行動からだったりした。

 

驚くべきはそれが普段我々が「演技」として見慣れている行為の経験値をほとんど持たない人々によってなされたことだと思う。聞くところによると監督たちは脚本のほかにサブテキストと呼ばれた、映画本編では取り上げられていない登場人物の行動履歴などが示されたものを用意していたらしい。

 

それが先述した演技の特徴に繋がっているとすれば、こうした素晴らしい演技のために必要なのは経験などではなくて、ただひたすら緻密で周到な準備と、それを遂行するための綿密な意思の共有でしかないのではないかとさえ思う。

 

 

以前「偶然と想像」を観たときは、めちゃくちゃ面白い脚本だ、、、!みたいなことを思った記憶がある。でもそれってたぶん演者の演技がすごく自然(というかすごく見慣れた形式の演技を上手にプレイしている、と言ったほうが近いかも)だったので、脚本にしか目がいかなかったからではと思う。

 

「ハッピーアワー」にももちろん脚本がすごく面白いっていう感想は抱いてたんですが、それ以上に演技に興味が沸いてしまった。

 

物語が書かれるとき、読む人が何も考えなくても、書かれたことだけがキャラクターの全てとして受け取られる。

でもそれが誰かによって演じられるってなると、そこには演者の体が介入してくることになって、キャラクターを表現するもの、世界を形作るものがテキスト以外にも存在することになる。

 

小さい頃からドラマとか映画とか、当たり前の娯楽として触れてきて気づいてなかったけど、演技っていうのは演劇において半端なくデカい要素だったんだと、改めて気づきました。

 

こういうこと考えていると、ふだん何気なくいてるテレビドラマとかもずっと観るところが増えて楽しくなっていい。